「ケアの現場は、テクノロジーに新たな生命を与える場所かもしれない。」
2019年2月2日、「ケアとテクノロジー 〜生と死の現場が見つめる技術のありよう〜」フォーラムが、国立オリンピック記念青少年総合センターにて開催された。
ケアの現場において、積極的にテクノロジーと寄り添う人の考えと活動を学びながら、これからのケアとテクノロジーのありようと関係性について考える場として、一般社団法人住友生命福祉文化財団と一般社団法人たんぽぽの家が主催する取り組みである。
技術が飛躍的に発展している現在において、生と死を身近に感じる医療・看護・介護・子育てといったケアの現場とテクノロジーは、互いがどのように関われるのか。同様のテーマ群を「愛」という切り口で発信するLove Tech Mediaとして非常に興味深いテーマであり、当日フルで取材させていただいた。
まずは雑誌『WIRED』日本版 元・編集長の若林恵(わかばやしけい)氏による基調講演内容をお伝えする。
テーマは「人の生き死にとテクノロジー」ということで、テクノロジーという言葉自体の歴史を振り返りながら、経済的視点も含めたケアとテクノロジーの弾力的な関係についてお話された。
雑誌『WIRED』日本版編集長を経て
「普段はケアと全く関係ない、雑誌の編集者をしています。2017年にクビになるまでWIREDというテクノロジー系の雑誌編集長をしており、今は黒鳥社というコンテンツレーベルの代表をしています。正直、なんでこのイベントに呼ばれているのかわかりません。」
そんなトークから始まった若林氏。そう、雑誌『WIRED』日本版の元・編集長として「テクノロジー」という観点では、これまで多くのイベントやフォーラムに登壇されてきているが、今回の「ケア」という文脈での登壇はある意味で新鮮な印象だ。
WIREDといえば、1993年に米国で創刊された雑誌。テクノロジーという窓から社会や文化を切り取り、その「ありうるべき未来像」を世に問う存在として、様々な分野におけるアーリーアダプター達を刺激し続けている。現在、英国、イタリア、ドイツ、そして我が国日本の4ヶ国でローカライズ版が出されている。
日本版は1994年11月に創刊され、1998年11月号でいったん休刊する。その後2011年6月に復刊し、復刊編集メンバーとして参画していた若林氏が、2012年1月より編集長に就任した。冒頭でお伝えした通り、2017年12月に発行されたVOL.30をもってしてWIRED日本版は再び休刊を発表し、それに併せて若林氏の編集長としての任も終了する。(WIRED日本版自体は、2018年6月にリブート号が発売され復刊している)
「テクノロジーで世界は良くなると思われていたのに、今、世の中では分断や格差が広がっていって、TwitterやFacebookのおかげでトランプが生まれたじゃんって言われている。これ、アメリカやヨーロッパでは本当に大問題になってまして、『インターネット自体が失敗に終わった』なんて論調も多く出てきています。
じゃあそもそもテクノロジーってなんなのか?僕自身、ここがどんどんわからなくなっていきました。今日はまず、『そもそもテクノロジーって何?』というところから始めたいと思います。」
科学に先駆けて、技術が常に先行してきた
ここで一つの書籍が紹介された。
『対訳 技術の正体 The True Nature of Technology』(著者 : 木田元)
書籍の発売日は2013年であるが、中身である「技術の正体」の文章自体は1993年に発表されたものだ。平易な表現でボリュームも少ないので、早い方であれば30分で読み終えることができるが、その内容は欧米先進国を中心とする技術文明をつくり上げてきた我々現代人の心に深く響く。
著者である木田元氏は、ハイデガー、フッサール、メルロ=ポンティを中心に現代西洋哲学の研究と翻訳を行なってきた哲学者である。
「この本のことを簡単に申し上げると、科学がわからないうちから、人間は鉄を作ってきた、ということです。
要は科学に先駆けて、技術が常に先行してきた。
技術の使いっ走りとして科学が召喚される時代が、近代である、ということです。」
そもそも「テクノロジー」という単語自体、実に不思議な言葉である。
techno-logy
技芸や技巧を示す「techno」と、学問を示す「logy」が組み合わさったものということで、元々は「技芸に関する学問」を示す言葉であった。それがいつの間にか、技芸そのものと意味や用途が混同されて使われるようになっていったようだ。
「僕が大好きな思想家の一人、イバン・イリイチは、craft(技巧・技術・技芸)に関する学問は昔あったと指摘しています。それが12〜13世紀にかけて消えていったという。中世の時代に差し掛かるあたりで、西洋人たちは技術というものを考える枠組みをなくしてしまったのです。
つまり、僕たちは技芸や道具を考える学問を持たないまま近代に突入していったということになります。」
ちなみに、この技芸や道具に関する学問思考を体系的にまとめた最後の人物とイリイチが評価するのが、こちらサン・ヴィクトールのフーゴーというキリスト教修道僧だという。イリイチ曰く、フーゴーは人間というものを、エデンの園から追放され、自然から分断させられて不具になった状態にある欠如を抱えた存在として捉えた人物だ。自然との一体性をどう開拓していくか、という観点で道具が非常に大事だと説いている。
さらにフーゴーは、道具というものは人間が周りの環境・世界ともう一度関係性を取り結ぶための装置であり、それを通して人間は世界との親和性を取り戻すことが可能になるものとると説いているという。イリイチはそれをキリスト教の文脈から切り離し、エコロジーという観点から、人間は自己疎外をしていった存在であると考え、道具は環境と共生していくためのもの、と定義している。
「これに関して、岩田慶治という文化人類学者の『人馬一体』という面白い話があります。
曰く、「『裸の人間』が『裸の馬』に乗ったところで、人馬一体はなされない。『鞍』という道具があることで初めて人馬一体になる。そして、鞍を通して人馬一体が実現された時に、その鞍には神が宿るのである。」
これ、僕が大好きな話なんですよね。
道具ってそういうものとして、元来人間は扱ってきたということです。
イリイチはこのことを、『conviviality(自立共生)』のための道具であると説いています。
つまり道具は、人と世界を繋ぐもの、ということです。
しかし近代以降の道具は、架橋ではなく分断のために使われていってるよねということで、イリイチはこれを『Modernized Poverty(近代化された貧困)』という言葉で表しています。」
あなたはFacebookの顧客ではない、製品なのだ
このModernized Povertyの一例として、イリイチの著書「生きる思想」に収録されている「Silence is a commons(静けさはみんなのもの)」という素敵な邦題がついた文章が紹介された。
一九二六年にわたしがこの島に着いたとき乗ってきたその同じ船で、拡声器がはじめてこの島に上陸しました。そんなものを聞いたことのある者はほとんどいませんでした。
その日まで、男も女もすべて、多少の優劣はあるにしても、同じように力強い声で話していたのです。
しかし、それ以来、事情は変わりました。
それ以来、マイクに近づくことが、だれの声を拡大するかということを決定するようになったのです。
いまや、静けさはコモンズ(みんなのもの)ではなくなりました。
静けさは、拡声器がそれを奪いあう対象としての資源になったのです。それによって、言語それ自身も、地域的なコモンズから、コミュニケーションのための国家的な資源にすがたを変えました」
『生きる思想』藤原書店(著者 : イバン・イリイチ、桜井直文監訳)
「テクノロジーは、人間を”資本”ってものに変えていくことに寄与するという、象徴的な瞬間として話されたエピソードです。」
メディア理論家のダグラス・ラシュコフ氏は5年以上前から「あなたはFacebookの顧客ではない、製品なのだ」と指摘してきた。
そう、Facebookは表向きは友人を作るための仕組みだが、背景に走っているビジネスは個人データの売買である。2012年あたりから「個人データは21世紀の石油だ」と表現されており、Facebookにとってのクライアントは広告主なのである。そして私たちはクライアントではなく、実は製品そのものなのである。
「テクノロジーとは、人を財に変えていくことで、人の生活を支配することを可能にするものです。デジタルテクノロジーは、これをかなりえげつない形で可能にするので、正直に申してヤバイです。
昨今のトランプ誕生やブレクジットも、この操作されたデータに起因したものとして、欧米では大問題になっています。
なので、デジタルテクノロジーで世界を良くするという流れは、今は完全に逆風です。」
そんな中、これからのテクノロジーにおける重要な論点は大きく2つあるという。
- autonomous decentralized(自律分散型のテクノロジー〔と社会〕)
- self-sovereign(自己〔当事者〕主権のテクノロジー〔と社会〕)
「後者の一例としてドイツのN26というモバイルバンキングをご紹介したいのですが、これ何がすごいかって、紐ついているクレジットカードを自分で止めることができるんです。
どういうことかと言うと、今僕たちが使っているクレジットカードって、カード会社しか止めることができないんです。いくら自分たちが止めて欲しいってお願いしても、無理なんです。まな板の鯉状態なんですね。
つまり今のテクノロジーは、自己決定権が個人に渡されておらず、企業や自治体が一元的に管理しているという状態なんです。
N26ではユーザーがクレジットの停止・再開を自己決定できると言うことで、大きな権限委譲がなされています。
今の時代の社会変革における大きなうねりの要素が、このself-sovereignになるでしょう。」
ケアの議論とテクノロジーの議論は完全にシンクロする
もう一つ、前者の「自律」という論点について、医師であり科学者の熊谷晋一郎氏が非常に面白い視点をインタビューを通じて発言されており、その内容についても紹介された。
一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
(中略)
実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。
公益財団法人東京都人権啓発センターホームページ TOKYO人権 第56号インタビューより
https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html
「デジタルテクノロジーの世界において言われる自律分散の考えって、これと一緒だと思うんです。自分にとって最も望ましい依存先を選んで、どう構築していくかっていうのが、デジタルテクノロジーにおける自律分散の本務だと思っています。
つまり、再三申し上げているデジタルテクノロジーが今後どういう世の中を作っていくかという議論は、実はケアの現場でなされている議論と、完全にシンクロしているんですよね。
僕が懸念するのは、ケアの現場で障がい者の自立を考える中で、テクノロジーが20世紀的な編成を背負ったままでそこに介入すると、20世紀の問題がそのまま再現されてしまう。
つまり、テクノロジーの資源にされないようにしないといけない。
便利じゃん!で飛びつくだけだと危険で、批判的に見ないとおそらく何も解決にならないし、むしろ解決が遠のくと感じます。」
「長々と話してしまいましたが、総括として。
テクノロジーへの期待はされるべきだと思いつつ、期待の裏側に、期待に反して作動する”何か”があるということについて、よほど注意して実装していかないと、結構嫌なことになりますよね。ということです。
本日は有難うございました。」
編集後記
「SNS疲れ」というキーワードが出てから数年が経過しますが、今回の若林さんのお話にあった通り、製品として消耗される存在として活用させられているのだから、そりゃそうなりますよね、と感じました。
昨今のSNSに代表されるデジタルテクノロジーのベースにあるのは、怖れや不安・承認欲求といった「欠乏の心」です。欠乏の心にテクノロジーが加わったことで、世界の分断につながってしまったのだと感じます。
満たされた心に寄り添うテクノロジーこそ、自己主権へと昇華され、ひいては自律した社会へと発展していくことでしょう。
なお、講演中に事例として出てきたドイツのモバイルバンキング「N26」をはじめとする、昨今のファイナンシャル・インクルージョン(金融包摂)に関わる事例解説や多様な見解について、現在発売中の「NEXT GENERATION BANK」にて詳しく紹介されています。
若林さんが責任編集をされており、本記事の内容とリンクするテーマも多くあるので、是非こちらも読まれてみることをオススメします!
ケアとテクノロジー〜生と死の現場が見つめる技術のありよう〜
2019年2月2日(土)@国立オリンピック記念青少年総合センター
主催:一般財団法人住友生命福祉文化財団、一般社団法人たんぽぽの家
後援:渋谷区
協力:公益財団法人テクノエイド協会、川崎市経済労働局(ウェルフェアイノベーション推進事業)、ファブラボ品川、NPO法人エイブル・アート・ジャパン
登壇者情報
若林恵(わかばやしけい)
黒鳥社 代表
『WIRED』日本版 元・編集長
世界で最も影響力のあるテクノロジーメディア『WIRED』日本版の元・編集長。現在は、いまの当たり前を疑いあらゆる物事について「別のありようを再想像(Re-Imagine)する」黒鳥社を設立。音楽ジャーナリストとしても活動し、音楽や映画、生活や宇宙、生と死といった人文知の視点からテクノロジーを見つめている。歴史家イヴァン・イリイチの概念「コンヴィヴィアリティ(自立自存)」に影響をうけ、新しいテクノロジーは果たして「自立自存の道具」となるのかを追究。著書『さよなら未来― ― エディターズ・クロニクル2 0 1 0 -2017』