2020年8月23日に、ダイバーシティを体感できる日本初のダイアログ・ミュージアムとして東京・竹芝にオープンした「対話の森」。
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ミュージアムといっても、絵画や骨董品等が展示されているわけではない。ここでは、他にはない“対話の場”が提供されているのだ。
具体的には、21年間日本で開催されてきた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」と、聴覚障害者がアテンドとなる静けさの中の対話「ダイアログ・イン・サイレンス」、そして世界で初めてダイアログ・イン・ザ・ダークに明かりを灯し、視覚的に見える中で旅するように人と出会える「ダイアログ・イン・ザ・ライト」が、それぞれプログラムとして提供されている。
本記事ではLoveTech Mediaの長岡が、このダイアログ・イン・ザ・ライトを実際に体験した様子を、なるべく具体的な目線でレポートする。与えられた環境にかかわらず、対話から生まれる時間は非常に尊く、それでいてとても豊かである。そんな感情をかみしめることができる“やさしい時間”であった。
成長し続ける「対話のらせん」
まずはじめに、プログラム参加前のルールやコンセプト説明が、スタッフから参加者一同になされた。約120分で3つの部屋での体験を行うこと、一つひとつの部屋はライトで照らされていること、ダイアログ・イン・ザ・ダークと同様に8人1グループになって進んでいくこと、そしてこれらプログラムを通じて「対話の森」が目指していること。
特に印象的だったものが、対話の森のロゴについての説明である。
これは、「対話」への思いとなる“言の葉”を集め、螺旋状につなぎ合わせたものを、上から眺めた様子なのだという。以下の動画がわかりやすいだろう。
そして、このシンボルの素晴らしいところは、常に成長し続けること。対話の森に寄せられた様々な言葉が追加されていき、ロゴへと反映されていく。まさに、対話の量に比例して進化する「対話のらせん」というわけだ。人によっては太陽に見えるし、光のゲートや花が開く様子にも見える。捉え方は様々だ。
「プログラムを楽しんでいただくために、カメラなどのお荷物はロッカーに預けていただきます。マスク」
さあ、出発だ。
満天の星が広がった「夜の高原」
最初の部屋に入ると、中の様子がしっかりと分かる程度に、明るいライトの灯った空間が広がっていた。よく画家がスケッチをする際に使う木製イーゼルに、「夜の高原」とだけ書かれたボードが据えられており、その隣に白杖を持った女性が笑顔で立っている。奥には重なった丸椅子があり、それ以外は何もない、天井が高いガランとした部屋だ。
「皆さん、揃いましたか?」
何人かが「揃いました!」と伝える。
「私の名前は「くらげ」です。まずは、皆さんのニックネームを教えてください♪」
しおりん、るみねぇ、ゆーり・・・と、一人ひとりがニックネームを紹介し終えると、各自一脚ずつ丸椅子を持っていき、ソーシャルディスタンスを保ちながら、円の字になって座る。今まで明るかった部屋も、真ん中に置かれたランタン以外は全て暗転され、一人ひとりの表情が確認できないレベルまで暗くなる。
「この部屋のテーマは「夜の高原」。皆さんは、どんな夜の高原を思い浮かべますか?ぜひ私に教えてください♪」
何の前情報もなく参加した僕にとっては、「そうか、これは本当に対話だけで進んでいくプログラムなのか」と実感した瞬間だった。正直、僕はそこまで社交的な方ではない。厳密にいうと、社交的なペルソナをかぶることは容易にできるのだが、4人以上のグループになると、発言のタイミングだとか発言の意図の説明だとか、色々と気を遣っちゃうエンパスな性格なので、どちらかというと“しんどい”という感情が湧き上がってしまう。「ちょっと面倒そうだな」。対話の森なんて名前の施設に来ておいて、こんなことを言うのはお門違いかもしれないが、正直に打ち明けると最初はそのように思った。
しばしの沈黙の後、参加者の男性が口を開く。
「草原があります。風に揺られて、サワサワサワって音がします。」
そこから、ポツリポツリと口を開き始める参加者たち。
「満月が見えます。」
「空に、眩しいくらいの天の川が広がっています。」
「遠くの方に民家が見えます。」
少しずつ解像度が上がってくる情景。他の参加者の言葉に反応する参加者たち。そして、一人ひとりの発言に対して、丁寧に感想を述べるくらげさん。
実はくらげさんも、かつて海外旅行で冬の夜の高原を体験したと言う。視覚情報として景色を“見る”ことこそはできなかったが、耳と鼻と肌とココロで、高原の心地よさを“感じた”体験談が紹介された。冬の夜の高原なんて、空気が澄んでいて気持ちいいに違いない。僕が体験した、これまでの冬の高原が、じんわりと記憶に甦ってくる。
「ぜひ、皆さんが思い浮かべた、私が体験した夜の高原を、絵に描いてみてください♪」
一人ひとりに渡されるスケッチ用紙と鉛筆。暗くてなかなか目が慣れないので、手元の絵はほとんど肉眼で確認できないが、僕含め、参加者は各々の思い浮かべる情景を描いていく。
2〜3分くらいだろうか。鉛筆の走る音がほとんどなくなった頃に合わせて、くらげさんが口を開く。
「ぜひ、皆さんの描いた絵を、私に教えてください♪」
ある人はたくさんの木々に囲まれた森の中の高原を、またある人はオリオン座を中心に広がる眩い星空の様子を、くらげさんがイメージしやすいように丁寧に説明する。中には、雨が降った後の土のにおいが広がる自然豊かな草原を説明する人もおり、参加者一同「わかる分かる」「いいですね〜」と盛り上がる一幕も。ちなみに僕は、高台から見た湖中心の土地に、木々が生え、大きな満月と一面の星が湖面に映ってキラキラと水面が揺れ、その横でヌーの群れが眠っている様子を説明した。
「あー、皆さんの描かれた高原の夜が、すごくよくわかります。とってもキレイでとっても心地いい♪」
表情はよく見えないが、満面の笑顔であることが分かる。くらげさん!僕にも見えますよ!笑顔のくらげさんと参加者の皆さんで、空気の澄んだ夜の高原にいるんです。程よく流れる夜風が気持ちよく、各々が地球、そして宇宙と繋がっているんです。
VRや映像がなくても、こんなに豊かな体験を共有できる。僕が初めてモンゴルのゲルに泊まった時、どこまでも広がる地平線を見て自然と涙が溢れてきたものだが、その時に感じた胸の熱さを、ダイアログ・イン・ザ・ライトの部屋でも追体験した次第だ。
「そろそろ夜が明ける時間のようです。これで、夜の高原のお部屋はおしまいになります。皆さん、素敵な時間を有難うございました♪」
童心にかえって“はないちもんめ”を楽しんだ「公園」
次の部屋に移ると、今度はそこに「公園」と書かれていた。隣には先ほどと同様に、今度は白杖を持った男性が笑顔で立っている。
「みなさま、ようこそお越しくださいました!わたくし、ここのアテンドを務める“せとせっと”と申します。どうぞ、宜しくお願いします!」
しっとりとした「夜の高原」部屋と比べると、こちらは随分と明るく、せとせっとさんの声のトーンも大きくてエネルギッシュだ。
「ここは公園です。公園といえば皆さん、子どもの頃によく遊んでいましたよね。今日はここで、皆さんに子どもの頃に戻って遊んでいただきます。」
子どもの頃の公園の遊びをみんなで出し合う時間。鬼ごっこ、ドロケイ、缶蹴り、はないちもんめ、ドッジボール、後ろの正面だあれ?、だるまさんがころんだ。たくさんの遊びたちが、幼少の思い出と共に甦る。
話し合いの結果、この日のテーマは「はないちもんめ」に決定。
〜はないちもんめの一般的なルール〜
数人ずつ2組に分かれて、横一列に並んで向かい合い、手をつなぐ。一方のチームから「勝ってうれしいはないちもんめ♪」と歌の一節を歌いはじめながら前に進み、次にもう一方のチームが「負けて悔しいはないちもんめ♪」と歌って前に進む。交互に歌を進めていき、最後にお互いの自チームに引き入れたい相手チームの人物をチョイス。指名された者同士でジャンケンをして、負けた方が相手のチームに入る。これを、どちらかのチームの人数がゼロになるまで続ける。
今回はウィズコロナ時代のはないちもんめ(以下、花一匁)ということで、手は繋がずソーシャルディスタンスを保った上で、みんなで好きな踊りを舞いながら歌を進めていく。そして、相手を指名するときは「右(もしくは左)から●番目の〜ちゃんが欲しい♪」と、視覚情報のない方でも自分がどこにいるのかがわかるように掛け声を工夫するルールとした。
花一匁の歌詞なんてわからない、という方も多いと思うが、奇跡的に、参加者8人中、2人がほぼフルの歌詞を覚えており、無事にゲームがスタート。
これが楽しいわけだ。
そもそも僕の場合、いや多くの人がそうであろうが、花一匁のような競技性のない集団ゲームを、社会人になってから実施したことがない。フットサルやゴルフのように練習すれば勝率が上がるものでもなく、最後の決闘はじゃんけんだからだ。でも何が楽しいって、まずは好きなように踊れと言われて、踊ることが許容されている空気感がある点だ。最初からギアを入れて体全体を動かしながら練り進む人がいれば、最初は恥ずかしさを抱えて動きが小さいが、徐々に動きを大きく大胆にしていく人もおり、みんなレベルの違いこそあれ、夢中になっていたのだ。せとせっとさんも、白杖を持ちながら、満面の笑顔で大きな動きを楽しんでいるよう。ちなみに僕はテンションが上がり、大道芸の要素を取り入れたヒゲダンスで練り歩いていた。
そうこうするうちに、相手チームが残り2名に。
「それじゃあ、特別ルールで、最後は勝者総取りにしましょう!」
最後の花一匁は、まさかの少数チームが多数チームに逆転勝ち。今回実施してみて気が付いたのだが、最後は全員が勝ちのチームに移ることになるので、全員が「勝ちチーム」として歌を歌うことになるのだ。まさに “We Are The World” の世界だ。
こんなに楽しく、知らない人たちと童心に戻って遊んだのは久しぶりだった。今度は、子どもの頃に体験した、彩度が低めのレトロな記憶が頭から離れなくなった。
「これにて、公園での遊び時間は終わりとなります。皆さん、素敵な時間を有難うございました!」
視点の転換が、新たな価値を生む「ノイズの森」
最後の部屋は「ノイズの森」。「きのっぴぃ」と書かれた名札を付けた男性が、これまでと同様に白杖を持って笑顔で立っている。
「ここノイズの森では、世の中にあるノイズについて対話していきます。まずはみなさん、お座りください。」
夜の高原と同様に、みんなで円になって丸椅子に座る。
ノイズというと、どういうイメージか。各々の参加者が思いつくノイズを口にする。公園で子ども時代の追体験を経たからだろう、最初の「夜の高原」とはうって変わり、みんな次々と声に出して意見を言う。うるさいバイクや電車の音、ずっと機械音が出続けるエアコンの音、Enterキーを強く叩くパソコン操作音、夜寝ているときに聞こえる蚊の羽音。僕自身、聴覚過敏の傾向があり、誰かと話しているときに周囲がざわついているとそれだけで会話に集中できなくなるので、周囲の雑音全般がノイズだと感じることがよくある。また音だけに限らず、自分の達成したいことの邪魔になるもの全般をノイズと考える意見も。集中したいときに話しかけてくる人やゴルフプレイ中の逆風、サラダに嫌いなものが入っていたときなどが挙げられた。
「皆さん、ノイズって聞くと、ネガティブなイメージが多いですね。逆にポジティブなノイズって、あるものでしょうか?」
ポジティブなノイズ。考えたことがなかったワードだ。
「赤ちゃんの鳴き声は、好きなノイズです。」
そう答える女性参加者。自分には娘がいるので、赤ちゃん時代の娘を思い出して懐かしい気分になると言う。かく言う僕も、現在3歳の娘がいるのだが、赤ちゃんの鳴き声や抱っこ紐の親子を見ると、同様に懐かしい気持ちになる。以前はむしろ子ども嫌いだったのだが、いざ自分が当事者になることで、見方が180度変わった体験であった。
よく考えてみると、ノイズを価値化させた例は世の中にたくさんある。例えばテレビのガヤ壇芸人(ひな壇芸人)なんてそうだろう。決まった台本ではなく喋る人は、想定された演出上の観点ではノイズとなるが、一方で期待を裏切ると言うお笑いの通則によれば、この上なく期待値の高い存在となる。
「皆さんにとってのノイズが、僕たちにとっての大事な生命線になることもあります。」
きのっぴぃさんが出したエピソードが、横断歩道の音楽。一昔前は「通りゃんせ」、最近では「ピヨピヨ」や「カッコー」の効果音で表現される、あれだ。あの効果音だが、夜間になると音を出さなくなるケースが多いのだと言う。
「近隣住民の方にとっては、日常生活をする上でのノイズとなります。でも一方で、僕たちにとってはあの音が、横断歩道を渡って良いのか悪いのかを判断する唯一の材料なのです。あの音がなくなってしまうと、周りに誰もいない場合、とても怖い思いをしながら渡らざるを得ないんです。」
これを聞いて思い出したのが、ハイブリッド車のエンジン音。運転者にとっては社内のノイズが除去されて、快適な運転を楽しむことができるだろう。一方で歩行者からすると、背後にいるハイブリッド車の存在に気づかないリスクにもなる。車の“ブーン”と言うエンジン音ノイズが、自然と近づいていることに気づくためのサインとして機能している例である。
そうか、僕たちが普段ノイズとして認識しているものは、もしかしたらノイズでなくその機能性を利用している人がいるのかもしれない。想像力を働かせることの大切さと難しさを感じた瞬間であった。
「そろそろお時間のようです。皆さん、素敵な時間を有難うございました。」
想像力を拡張する唯一の方法、それが「対話」なのかもしれない
以上でプログラムは終了である。合計2時間ほど。
この感覚は一体何なのだろう。とっても豊かでやさしい気持ちになっている自分がいる。小さい頃の記憶を思い出したからだろうか。心地よい夜の高原を追体験したからだろうか。童心に戻ってはしゃいだからだろうか。または、新しい視点を知れたからだろうか。「ちょっと面倒そうだな」と思っていた最初からは考えられない、気持ちの変化である。
そう思っていると、最後に僕たちをアテンドしてくれた視覚障害をもつ方々が登場された。
たった2時間なのに、懐かしい。くじらさん、お久しぶりです!せとせっとさん、はないちもんめ、楽しかったですね。きのっぴぃさんは、さっきまでご一緒してましたね。
せとせっと「皆さま、この度はありがとうございました!
この対話の森には、安心安全に私たちのことを伝えたり、相手を知ることができます。対話を通して、お互いの違いの豊かさ、そして一緒に過ごす中で喜びを体感することできます。
このような仲間が、約30名ほど切磋琢磨している。ぜひユニークなアテンドたちに、また会いに来ていただければと思っております。」
今世の中ではダイバーシティという言葉が盛んに使われていて、その流れ自体はとても素晴らしいと思う。一方で、多様性を受け入れるって、そう容易いものではない。そもそも僕たちは、当事者にならないと、想像すらできないこともある。だからこそ、知らないうちに、いつの間にか誰かを傷つけてしまっていることもあるのだろう。
想像力を拡張する最大の、そしてもしかしたら唯一の方法は、当事者との対話にある。この人にはこんな風に見えているんだ、こんな捉え方をするんだ。そんな気づきの積み重ねが、多様性を自然な形で認知して、自分の中で空気にしていくプロセスなのだと実感した時間であった。
ありがとう「対話の森」。今度はダイアログ・イン・サイレンスも体験してみたいと思う。
(文/長岡武司)