はじめに
日本経済新聞社が主催する、人工知能(AI)の活用をテーマにした初のグローバルイベント「AI/SUM(アイサム)」。「AIと人・産業の共進化」をメインテーマに掲げ、4月22日〜24日の3日間かけて東京・丸の内で開催された、大規模ビジネス&テクノロジーカンファレンスである。6月に大阪で開催されるG20に先駆けた取り組みとも言える。
レポート第5弾の本記事では、「デジタル社会における産業とガバナンスのアーキテクチャ」というテーマで設置されたセッションについてお伝えする。
第4次産業革命が到来し、様々な企業や業種がデータを介してつながり、新たなサービスやビジネスが展開し始めている。他方、こうしたビジネスをいかに効率的にスケールさせていくか、かつ公平・安全にサービスが展開されるかが重要な課題でもある。
あらゆるステークホルダーが参加して提供されるサービス、例えば、自動走行車は地図や交通関係データ等の利用が必須であり、自動走行車の製造メーカーだけでその信頼性を維持することは難しい。また、イノベーション加速化のためには、ガバナンスについても、法規制のみならず、データや技術を用いての最適化・効率化をしていく必要がある。これらの考えの土台となるアーキテクチャ(設計図)はどうあるべきか、技術と制度をどう関連させるべきか、官民の役割分担はどうあるべきか等について議論された。
本セッションの前提として、デジタル時代におけるガバナンスイノベーションの議論の流れを理解する必要があるため、2019年3月に経済産業省が発表した「データ利活⽤とデジタルガバナンス」資料に基づき、まずはこの部分についてお伝えし、前後編の2編構成でセッションの様子をお伝えする。
前編では上述の解説に加え、セッション内での慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科・教授の白坂成功(しらさか せいこう)氏による「アーキテクチャ」思考の解説内容についてお伝えする。
※本記事第1章の図については、上記経産省発表資料より抜粋したものを掲載し、解説を進める。
デジタル空間含めたLawとCodeの再定義・再構築が必要
昨今の経済活動を考えるにあたって、我々は、実際に生活をしているリアル空間(Real)と、インターネットをはじめとするデジタル空間(Digital)の両軸を考える必要がある。
例えば「インターネット・ガバナンス」という言葉がある。インターネットを健全に運営する上で必要なルール作りや仕組み、 それらを検討して実施する体制などを表す言葉であるが、そのあり方や思想は国・団体、時代によって様々であり、今日に至るまで現在進行形で激しく議論されている領域である。その歴史については一般社団法人日本ネットワークインフォメーションセンターのこちらのページにまとめられているので、興味のある方は参照してほしい。
このインターネット・ガバナンスを考える上で、「Law(法律)」「Code/Architecture(コード・設計図)」「Norms(規範)」「Market(市場)」という4要素があるが、法律とコード・設計図の部分で【ガバナンス・ギャップ】が発生してしまっているのが現状と言える。新しいテクノロジーに法律が追いついていないことでイノベーションが阻害され、また規制当局がデジタル空間上の市場を法的にチェックする能力や仕組みも不足しているのだ。
つまり、今のあらゆるルールは「リアル空間」でやってもらうことが大前提となっており、デジタル空間も含めた形でフィットさせることが至上命題となっている、というのが、本セッションの基本的背景である。
米国NISTが担うアーキテクチャー・スタンダード設計
このガバナンス・ギャップを埋めるための取り組みは、世界の先進諸国で進められている。
例えばアメリカには、米国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology: NIST)という機関がある。米国内企業や海外の科学者・工学者約2,700人の他に、米国内約400ヶ所の提携機関で1,300人の製造技術専門家やスタッフが関与するという組織体制となっており、予算規模も推定で10億430万ドル(約1,120億円)となっている。
「経済保障を強化し生活の質を高めるよう科学的測定方法、標準、技術を改善し、米国の技術革新及び産業競争力を強化すること」をミッションとし、進歩の著しい産業分野において、アメリカにおける技術評価ツールの提供などを通じて、各分野の成長・発展を技術面からサポートしている。具体的には主に、度量衡や計測・計量についての標準を管理し、工業用温度計など、部品・製品の精度管理及び品質を保持するための校正機器等を含む高度な計測サービス、研究者及び製造業者が製品の純正度や強度その他の属性をテストするための標準物質を提供しているほか、米連邦政府のITシステム運用に関する技術標準の策定で主導的な役割を果たしている。
アメリカでは、このNISTがハブとなってアーキテクチャーやスタンダードの設計を官民連携して策定している。以下、NISTが中心となってアーキテクチャを前提とした社会実装を進めるアメリカと、アーキテクチャなき社会実装を進める日本とを比較した図である。
ビジョン策定後2番目と3番目のフローの有無が、最終的な社会実装後の規制見直しといった法・システムの変化の有無につながっていくことがわかる。アメリカでは、新たなアーキテクチャが公共財として提供されているわけだ。
注目のインド公共デジタルインフラ・India Stack
アーキテクチャを前提とした社会実装の取り組みは、なにもNISTだけではない。一つの事例として、インドが進める公共デジタルインフラ「India Stack(以下、インディア・スタック)」についても触れたいと思う。
インディア・スタックとは、インド政府が進めるオープンAPIの仕組みである。具体的なプロジェクトの始まりは、今から10年前の2009年に遡る。
当時、インドでは身分証明書さえ持てない国民がおよそ半数を占めており、銀行での口座開設はもちろん、運転免許証すら作ることができない状況であった。農村地域では読み書きができない人も多く、故に先ほどの表現で言うところのリアル空間でのインフラではなく、より汎用性と即効性の高いデジタルインフラを整備する必要があると政府は判断した。
そこで指紋認識と網膜スキャン技術を活用した生体認証により、国民全員に一意のデジタル識別ID「Aadhaar(アドハー)」を付与するプロジェクトがスタートし、実質的な運用開始が2014年に始まった。そこから2018年には、インド国民12億人がこのAadhaarを取得するという、世界最大の公的認証基盤となっている。
わずか4年間で12億人に支給するという、爆発的な普及を実現しているわけだ。
これにより、これまで身分証明できなかった層が銀行口座を開設したり、起業することができるようになった。いわゆる大規模な「金融包摂(ファイナンシャル・インクルージョン)」エコシステムの実現である。
Aadhaarを利用した認証は毎月10億件を超え、決済は1日で3億件の取引を実現している。また、小口の銀行取引手続きに要する時間が6日から1時間に激減し、支店の余力は10%増加している。既に国民生活に根付いたものになっていると言えるだろう。
このインディア・スタックは、「ミニマル」「標準化」「シンプル」「執行を容易に」「規制を容易に」をキーワードに設計された。サービス構造の見取り図を整理することで、Stackを軸に様々なプレイヤーがサービスを提供できるようにし、GAFAに依存しない環境創出によりイノベーションの促進を実現している。
ちなみにこのインディア・スタックの取り組みは、インフォシス社CEOをはじめとして組成された「iSpirit」という民間チームが、政府に入って企画を主導している。
求められる「アーキテクチャ」思考
このように、世界各国ではアーキテクチャ思考を土台としてインフラ設計及び法規制の整備を進めている。それに対して、日本はどうするべきか。この議論に先立ち、そもそもこの「アーキテクチャ」とはどういったものなのか。どのような視点・思考と共に関わるべきなのか。
慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科・教授の白坂成功(しらさか せいこう)氏が解説された。
「アーキテクチャとは、もともとは建築領域から来たものです。」
建築家の方は何かを建築設計する際に、その地域の街並みや住民との関係性のみならず、その街がどう進化してきて、これからどう進化していくか、といった要素までを考えながら進めていく。
それを抽象的に概念化し、システム的に思考する形にしたものが「アーキテクチャ」思考であるという。
具体的には、空間・時間・意味という3つの軸で捉え、その中に存在する関係性について考えながら設計していく。ちなみに意味上の関係(意味俯瞰)とは、レイヤー構造によるマッピングを意味し、例えば「なぜ」「何を」「どうやって」といった要素をレイヤー化して考えるものだ。ソフトウェア設計の領域で言えば、アプリケーションを複数のレイヤーに分けてそれぞれのモジュールを設計・開発する、といった進め方を経験された方もいるだろう。基本的には同じ考え方である。
「アーキテクチャは、設計者のWillの表れです。
どういう目的を選んで、どう実現するかのWillを、複数の可能性の中から選ぶ。
こういう可能性があるから規制を作るのか、もしくは作らないのか。そもそも作る/作らない含めて決めるのか、決めないのか。
そういったこと全てがアーキテクチャの思考範囲となります。」
アーキテクチャと法規制は非常に密接に関わっている。ここでは車の自動運転が例に挙げられた。
「自動運転車については、技術的に難しいのももちろんありますが、それ以上に、法制度を併せて考えねばならず、エンジニア単独では決められないという状況になっています。
例えば、止まっている自動運転車に、自転車がぶつかったとします。
それによって、車の端っこにあるセンサーが壊れたので、町工場に持っていって直したとしましょう。
ここで、この車は安全と言えるでしょうか?
安全に運転できることを、誰が保証するのでしょうか?
町工場の人が『この車は安全だ』と言える?それとも言えない?
言えないとしたら、どういう形で安全確認するべきか。
ちゃんと安全だという確認が自分でできる機能を実装するか、必ずディーラーに持っていかねばならないか。後者について、確認のシステムをディーラーが準備をするべきか、メーカーサイドが準備するべきか。
こういったことまで考える必要がありますが、これは車を設計しているエンジニアでは判断できませんよね。
このように、自分たちだけではトレードオフで決められない問題なので、規制を考えている人たちと一緒に考えざるを得ない。
つまり、設計することと法制度は、すでに分割ができない領域になってきています。」
このような状況の中で何かを決めるためには、立場や産業をまたいでの、クロスインダストリー(クロスドメイン)な話し合いが必要となる。
そのようなダイバーシティに富んだ立場の人々が集まる中で、何らかの形で同意を取らなければならない。また何かを決定したとしても、テクノロジー進化の動きが早いことから、すぐに前提となる想定が変化する可能性だってある。
そのような大前提の中、「構造化」と「可視化」で多様な意見を得て、かつ変化に合わせて変わっていけるための土台となるのが、アーキテクチャなのである。
「官民分担をどうすべきかという議論がありますが、正直に申し上げて、私にはわかりません。どちらが決めるべきなのかは、しっかりと議論せざるを得ないでしょう。その際に、一緒に議論するプラットフォームとして、アーキテクチャがベースになるべきだと考えます。」
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